2017
04.13

川の音(明月院と岩瀬)

Category: 未分類
神奈川県鎌倉市山ノ内にある明月院は、アジサイの見事さで有名だ。その素晴らしさを堪能したら次は、観光客の少ない時期の明月院を訪れたい。寺に向かう道に入ると、住宅地にもかかわらず、もうそこは鎌倉時代を彷彿とさせる寺域であって、狭い道を車はゆっくりと通り過ぎる。
右側は崖下で山の木が鬱蒼としている。左には川が流れていて、路肩にロープが張られている。川岸の土が崩落しないように、人が川に近寄らないように配慮されている。
そこで川の音がする。ちょろちょろと水の流れる音がする。少し歩くと音は聞こえなくなる。その先でまた音がする。ぱしゃぱしゃ。今度は川をのぞいて見る。
川底に小さな段差ができていて、小さな滝が音を立てている。その上に橋が架かっていて住宅の玄関になっている。これもやはりここだけの川の音で、歩いて行くと音は遠くなり、聞こえなくなる。
目をつぶってこの音を聞くと、どう聞こえるだろうかと思う。次々に現れる音は先へまだ先へと誘うように聞こえるだろうか。
また音が近づいてくる。コポコポ。また川を覗く。
川底に細く彫られた水路があり、水は速さを増す。小さな滝が小さな滝壺を作り、渦を巻く中に水が落ちて行く。そしてやはり橋が架かる。
街灯のない時代の夜の明月院を想像して見る。ここは最明寺という大伽藍があった所だ。川を渡った先に僧房が並んでいただろう。本堂でお務めを終えたお坊様が、夜道を小さな灯明で歩いてくる。
山は風にざわざわと鳴っていて、ごろすけほうと夜鳴く鳥の声がする。蛇に襲われた木鼠の恐ろしい声がする。そこに川の音が近づいてくる。コポコポ。僧房への小さな橋がそこにある。音を立てる川を渡り、静かで暖かな孤独が待つ部屋へと帰って行く。
明月院の川が音を立てているのは、人が使っていた装置だからだ。人工的な風情は無い。まるで自然が作ったかのように、偶然のように川は音を立てる。自然の河床に手を加えるなどという不遜な行為が見えないように、作為の無い景色が出来上がっている。
寺の風景には音の意匠までが含まれていた。鹿威しの音、水琴窟、岩清水。そしてこんな小さな川の音。この音は遺跡である。
鎌倉市山ノ内の梶原に抜ける瓜ケ谷の川底にも、音を立てる仕組みがある。でもここはもう暗渠だと言ってもいいほどの無残な川になって、川の音を楽しむことができるほど、その風情は残っていない。

川底を加工して川の水を使ったらしい痕跡が、鎌倉市にはまだ残されている。
岩瀬の砂押川の下流である。桜の美しい砂押橋から川に沿って下って行くと、桜橋に着く。 砂押川はすっかり水路として整備されて、この旧道が辛うじて昔の美しい川沿いの風景を想像させる。ここから鎌倉女子大の門までのほんの少しの間、河床の岩盤が見える。大切に残されている。
なめらかに磨かれた岩床に数本の水路があって、洗濯だろうか、野菜を洗ったのだろうか、桶のような溜まりを作ってある。その脇には赤ん坊の裸のお尻がすっぽり入るくらいの、浅い窪みがあって、子供達の歓声、女たちの笑い声が聞こえるような川底だ。
その岩床は断ち切られていて、その先はコンクリートの川底だ。ここから桜道が続いていて、美しい遊歩道が整備されている。美しい桜並木は川が排水路になってしまった代償であるようにも見えた。

鎌倉の自然は箱庭のように隅々まで人の手が入って、作り上げられたものだった。そこにどんな意匠が凝らされていたのか、耳を澄ましながらその痕跡を訪ねるのも楽しいと思う。
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2016
02.20

鹿島神宮と箱根町の二子山

Category: 未分類
鹿島神宮から見ると、筑波山に夏至の日が沈み、箱根町の二子山に冬至の日没が見られるという。真鍋大覚のドイツ語訳古事記第四巻にある。170km離れた鹿島神宮から1000mの二子山を見ると、仰角は1度以下だ。なぜ大覚はこんなことを書くのだろう。
以前HP「鎌倉、まぼろしの風景」のどこかに、寒川神社と二子山について書いた。

相模国一宮寒川神社から見ると、箱根町の二子山に冬至の日没が見え、逗子市の二子山に冬至の日の出が見える。このライン上に鎌倉市の長谷観音があって、この高台からお正月の日の出が逗子市の二子山の間から見ることができる。東西に二つの二子山があるのだから、どっちか一つは人工物だろう。逗子の二子山の方が規模が小さく、深い谷を掘り進むことで山頂を双耳峰にしているように見える。あの山の姿は、古墳と同じく人工的にデザインされたものなのではないか。



そんな文を書いた。

この箱根町二子山と寒川神社を結ぶ線は鹿島神宮まで伸びていたのだ。

それは相模国と常陸国が同じ文化圏にある事を表すだろう。寒川神社と鹿島神宮はかつては同じ設計で設営された施設だったと想像できる。

私たちが見慣れた山の姿が、自然物ではないという、驚き。だから各地にあるピラミッド型の山の姿も、当然、人が作った遺跡なのだと思う。

http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html  鎌倉、まぼろしの風景




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2016
02.20

鹿島神宮と箱根町二子山

Category: 未分類

鹿島神宮から見ると、筑波山に夏至の日が沈み、箱根町の二子山に冬至の日没が見られるという。真鍋大覚のドイツ語訳古事記第四巻にある。170km離れた鹿島神宮から1000mの二子山を見ると、仰角は1度以下だ。なぜ大覚はこんなことを書くのだろう。
以前HP「鎌倉、まぼろしの風景」のどこかに、寒川神社と二子山について書いた。
相模国一宮寒川神社から見ると、箱根町の二子山に冬至の日没が見え、逗子市の二子山に冬至の日の出が見える。このライン上に鎌倉市の長谷観音があって、この高台からお正月の日の出が逗子市の二子山の間から見ることができる。東西に二つの二子山があるのだから、どっちか一つは人工物だろう。逗子の二子山の方が規模が小さく、深い谷を掘り進むことで山頂を双耳峰にしているように見える。あの山の姿は、古墳と同じく人工的にデザインされたものなのではないか。

そんな文を書いた。
この箱根町二子山と寒川神社を結ぶ線は鹿島神宮まで伸びていたのだ。
それは相模国と常陸国が同じ文化圏にある事を表すだろう。寒川神社と鹿島神宮はかつては同じ設計で設営された施設だったと想像できる。
私たちが見慣れた山の姿が、自然物ではないという、驚き。だから各地にあるピラミッド型の山の姿も、当然、人が作った遺跡なのだと思う。

<table cellspacing="0" cellpadding="0" width="100%" style="margin-bottom:16px;margin-top:32px;padding-top:16px;border-top:1px solid #d3d3d3;">
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<td style="text-align:left;font-size:13px;line-height:18px;color:#747474;font-family:Helvetica, Arial, sans-serif;">
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</tr>
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2016
01.26

大淀三千風の遺物

Category: 未分類

三重県松阪市の本居宣長記念館へ行った。
元禄の連歌師、大淀三千風の初版の日本行脚文集全七巻を見せていただいた。
素晴らしかった。筆文字の文はとても読めないけれど、鎌倉の扇ヶ谷の臥龍松の所を眺めた。2011年の本居宣長記念館の記事にその写真があった。
http://www.norinagakinenkan.com/whats/kizou_nihonangya.html

旅する俳諧師は松尾芭蕉が有名だ。死後に俳聖と讃えられ持ち上げられたので、今に作品が残る芭蕉は、確かに素晴らしい俳句を残した。
それは「意図的に残された芭蕉」の功績であって、大淀三千風にはその必要がなかった。はじめから有名人で江戸時代の人々は彼が大好きだったから。
その彼は、時代の中で役目を終え、今は語る人が少ない。

鎌倉キリシタンを調べて行く中で、彼に出会って、2008年に三千風の事を書いた。
http://kamekokishi.web.fc2.com/stella/garyuu.html
鎌倉に来た三千風 「鎌倉、まぼろしの風景」HP

http://kamekokishi.web.fc2.com/kyrie/190/tatsutau.html
○と□(マリヤとイエス) 「鎌倉、まぼろしの風景」HP

この当時ネットでは三本居宣長記念館でしか三千風の事を知ることができなかった。館長さんの共感に満ちた暖かい記事が多いに影響して、私は三千風のフアンになった。

思いがけないことに、三千風の遺品とは、金唐革紙の手箱だった。
金唐革紙を調べていって、また、歴史のドラマの中に入ってしまった。
ここには書ききれない。


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2016
01.18

景色はどこから見るか

Category: 未分類
鳥羽三女神を知って八禰宜山を知った。
http://kamekokishi.web.fc2.com/stella/259/259.html
ハネギ山から見ると北東から東にかけて夏の大三角形のデネブ、織姫星、彦星が上がってきた時に、湖面に星を写したように鳥羽三女神の灯明が見えただろうと思う。
星の三角と三女神の灯明の三角が同じ大きさに見えるのは、八禰宜山の山頂からの風景だ。そしてこの山頂からみると伊勢神宮内宮は真北にある。

さて。ここからが問題だ。
この事をイワクラ学会の方々に問うと、あっという間に返事がくる。私の様なハンパな者にも親切な、素晴らしい方々が活動中なのだ。
内宮の北には磐座があるという。磐座と内宮と八禰宜山の山頂は子午線上に揃うのだ。
これはすごい。人為的だ。

磐座から見れば内宮は南中した太陽の真下にある。アマテラスを祀るのにふさわしい設計だ。
ところが八禰宜山から見れば、北の空の北極星の下にある神社は子(ね)の神社か毘沙門堂に見えるだろう。今の北極星が天の北極になかった飛鳥時代には、天の北極を祀る目印として、どうしてもそこに(内宮の位置に)光る灯明が欲しいところだ。

もちろん、異論もあるだろう。どの神社も、南から見ると北の神社になるし、北から見れば南にある神社だ。でも、わざわざ山頂の北に神社があるのは、偶然ではないだろう。
磐座と山頂と、どちらが古いかと問えば、山頂ということになる。(山頂の位置を加工すれば別だけれど。)
山頂から北を見て、そこに夜も光る岩を置いた。あるいは、そこに元々あった岩を磐座に加工して、暗闇に沈む森を切り開き、星月夜に輝く岩の鏡面を目印にした。そう想像して見た。その後に、磐座と山頂との視線を遮るように内宮ができた。のではないか。磐座はやがて不要になり、土地の人達だけが祀る場所になる。
それを後に、おそらくは星神が復興した江戸時代に、鳥羽三女神というセットが、古い神社を組み合わせて作られて、「八禰宜山から見る」という秘密が語られたのではないか。と、思った。
江戸時代にお伊勢参りが大流行する。不思議だとずっと思ってきた。
平将門を公然と祀って江戸の守りとしてきた時代は、朝廷の力が最も弱かった時代だ。その時代にお伊勢参りが大流行する。
そのお伊勢参りは、猿田彦の二見浦であり、猿田彦の外宮であり、北辰の内宮であったのではと思う。
伊勢に居た猿田彦(猿どもの首領と貶められた星神を祀る王)は、八禰宜山を甘南備山として祀っていたのだろうと、想像してみた。

http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html 鎌倉、まぼろしの風景
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