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2013
06.30

頼朝アバンギャルドを見てきました


劇団紅月さんの頼朝アバンギャルドは、今回で2回目です。前回の西御門サローネで上演された時から大きく改変されて、より緊密な劇になりました。
西御門サローネは鎌倉市の鶴岡八幡宮の北東にあって、党の辻の七つの塔で作る天の北極に近いところでした。赤山という禁忌の山に近いのです。
だから「この館を訪ねる」という導入が生きていました。
今度は二階堂のカジュ・アート・スペースです。どうするのかな~と思っていたら、大刀洗の故事から始まりでした。梶原景時が初めから出てくる。
大きな違いでした。
北条政子が出てこなくなって、静御前の存在が大きくなりました。
素敵な幽霊が出て、息詰まる緊張を和らげています。
本当に出てくるだけで笑えるって、才能ですね~。
そんなわけで、もう、等の辻は要らないのになあ、カットしてもいいのにと、思っていたのですが。素敵なセリフに出会いました。
沢山の取り巻く星があるから北極星は輝くんだ、という(ような…覚えてない)セリフです。リーダーは一人で輝くのではない、支える沢山の存在があるから輝くんだという台詞です。
そう、お星様の町なのよね~鎌倉は。と、うなづきながら見たのでした。
最終回は今日の16時から。荏柄天神社の鳥居のすぐ左を八幡宮の方に入ります。
お勧めいたします。




http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html 鎌倉、まぼろしの風景





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2013
02.13

佐野川の童謡と柳田邦男

新編相模国風土記稿の津久井郡を読み直す。相変わらず何度読んでも興味深い。佐野川の記述だ。
大正時代に柳田邦男が興味を持って、調査にやってきた。
それを相模湖の入り口にある正覚寺の和尚さんが、引き止める。
古老の誰もがそんな伝承はないと言う記述を、調べるのはお止めなさい、と。
私にも同じ経験がある。
二宮町の明星神社へ行こうとした時、タクシーさんが言った言葉が、そんな神社はないですよ、だった。
平塚市で護良親王の墓を探した時は、この辺りには見るものはないですよ、向こうの方へ行った方がいいですよ、だった。
鎌倉市の六国見山では、あんたの犬も毒饅頭を食わせられないように注意しなよ、だった。
住んでいる方々の協力が得られないなら、見に行かない方がいい。あるいは、こういう反応も貴重な体験として使うことだ。
私の二宮と平塚の経験は、歴史的な真実に基づく体験だった。
昭和の思想弾圧がいかに厳しいものであったかという、体験である。それが平成の今にまで、伝わっている。非国民と言われないように、住民の警戒心は解けていない。
神奈川県相模原市緑区佐野川のサノとは狭野であるという。相模のサは、狭野のサであるという。
武州と甲州と相州が接する三国峠から相模の国は広がっている。
そんな佐野川に石楯尾神社があることを知った。式内社である。
県内に7社、あるらしい。その数に入っていない本宮が三国峠の山頂にあって、佐野川の石楯尾神社は前宮だと言う。
その本宮へ、夜、三河の殿様が登って行った。
お恐れ多くも三河の殿様が、と、佐野川の伝承と言われるわらべ歌は唄う。

   お馬にも乗らず、お駕籠にも召さず

   夜中の頃にお山へ登った殿様は、

   ありゃあどこの殿様だ。

   お恐れ恐れ、泣く子も黙れ、

   三河国の殿様だ。

それは徳川家康か。池田輝政か。田中バルトロメオ吉政か。興味深いと思う。

津久井郡佐野川を調べて新編相模国風土記稿に纏めたのは千人同心の人達だ。八王子千人同心は、武田の遺臣達であるそうだ。その末裔が残したかった事が、甲州に接したここに残っているのではないか、と、思った。


http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html  鎌倉、まぼろしの風景




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2012
01.01

田の字の中にあるクルス

今日は午後二時からTVで歌舞伎があった。隅田川と、源平布引滝 だった。
田という字は口の中に十という字が入っている。
TVの画面に出た田という文字は、活字の田とは違った文字だった。
真ん中の十という文字の横棒が短いのだ。それで口の、両脇についていない。
横棒の両脇が空いている。ハッとした。

図象として、その田という文字を眺めていた人が、江戸時代にいたのだと思った。
田という漢字をこの様に書く人と、書かない人がいた、としたら。
それは何をアピールしただろう。
江戸時代の文字は現代人には読みにくい。だから活字に起こして資料にしてくれると、
読みやすくて助かる。でも、それでは、漢字をどう書いたかは残らないのだ。
田の字の横棒が短いのか、長いのか。活字資料では抜け落ちてしまう情報だ。
こんなに、見た目のイメージが変わるのに。

書、という美術品の分野がある。美しい文字を鑑賞するのだと思っていた。
有名人の手紙だったら、本人が書いたという価値がつく。
でも、それだけではない。
この人は田という文字をこの様に書く人だった、という様な、
個人の好みも表していたのだ。と思った。
書かれた文字をみれば、文章の内容に関係なく、伝わる別の事がある。

それを掛け軸にして茶室に飾る。見る人はドキッとする。
でも、それを語る事はできない。田の横棒が短かったら、なぜドキッとするのか。
それを語る事はできない。ただ、いい書ですねと言うばかりだ。
いや、私はどうも好かない。と言って忌避する人もいるかもしれない。
キリシタンの禁教時代に、そう言う会話があったと想像する事は楽しい。

最近、老舗の看板や酒瓶に書かれた酒の名前など、江戸時代の文字を眺める。
甘なっとうと書かれた甘と言う字に、太いクルスがあったり、
米と言う字が縦長だったり。
茶と言う文字はまるっきりキリストの十字架図だ。
山の上の遠景に小さい十字架が二つ見える。中央には大きな十字架。
キリストは二人の罪人とともに十字架にかけられたから。
そのキリストの十字架の足元に、二人のマリアが膝まづいている。
そう、見える様に、書ける。活字になると消えてしまう情報だ。

江戸時代の庶民はとてもしたたかで強い、と思う。
数万人が殺されたという弾圧時代に、ハナを明かすような娯楽を創り上げた。
その事をもっと見つめて見たいと思う。











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2011
12.27

「島原半島の小夜姫様と道祖神」を読んだ

地球は自転している。コマの様に回っている、その中心にある実在しない見えない軸を地軸と言う。
地軸を中心に地球が回るので、全ての天体は24時間で大空を一回転して見える。太陽が東から昇り西に沈む様に見えることだ。
地軸の先には北極星がある。全ての星が回転しているのに、北極星は止まって見える。
宇宙のあらゆる星々が北極星を中心に回って見える。太陽でさえも。
それで北極星は太一と呼ばれた。宇宙の王だ。
ところが地軸は揺れていて、26000年で円を描き、ほぼ元の位置に戻る。
今は地軸の先に北極星があるけれど13000年後はこと座のベガ、織姫星の方に向く。
織姫星が北極星になるのだ。太陽以外で、全天で5番目に明るい恒星だ。今の北極星は二等星。ベガは一等星より明るい0等星だ。今の北極星より明るく大きな大王が、北の空に止まって見えるのだ。それは遠い未来の事だ。
今から13000年前、というと縄文時代に、このベガは北極星だった。巨大な星が空の中心に止まっていた。何千年も、それが当たり前であったのだ。
そのベガが、ある時、北の中心から外れてしまった。王座から離れて虚空を回り始めた。他の小さい星と同じ様に。
それはどんなに恐ろしいことであっただろう。中心に王が居ない。
次の千年で、ベガはもっと中心から外れた。もう戻らないのかもしれない。
星を見る人たちは不安だっただろうと思う。
ところが人間の叡智は、見えない地軸を発見した。
ベガが空の中心から逃げたのではない。地軸がベガからずれたのだと。
天帝を指名する地軸という神がベガを罷免したのだ。
天の王は王座を追われたのである。
天の王に勝る地軸の神を日本では天御中主(アメノミナカヌシ)と言う。宇宙の創造神であるという。
地軸はベガから移動した。それはいつまで続くだろう。いつかはまたベガに戻ってくる、そんな時代が来るだろうか。
ベガが北極星であった事をアジアの海洋民達は後々まで伝えた。一万年の後までも。
七夕伝説である。

織姫星(ベガ)は部屋にこもって、動かずにじっと機織りをしていた。ところが牛飼いの牽牛星(アルタイル)に恋をして、彼と共に牛を追って歩き出した。
天の中心から動き出したのだ。
神は怒って天の川の対岸に織姫と牽牛を引き離した。
しかし恋人に会えない織姫の嘆きを見て、年に一度だけ会う事を許した。
天の川に渡された橋は白鳥座。和歌の世界では「カササギの渡せる橋」という。
北十字星である。キリシタンの十字架を表す星座だ。

参照:鎌倉、まぼろしの風景 165 夜空にかかる十字架

橋ができる前は渡し船があった。古事記に載る天鳥船アメノトリフネである、と思う。
岸辺で別れた恋人を思って嘆く乙女は、松浦小夜姫伝説に重なっている。

12月24日に有家コレジオホールで行われた第152回コレジオ文化講座の題が「島原半島の小夜姫様と道祖神」だった。幸運にもその資料を読む事ができた。インターネットの向こうには、親切な人がいて、24枚もの電送をしてくださったのだ。ありがとうございます。
島原には庚申塔と道祖神と、青面金剛碑と猿田彦碑と、さやんごぜん様(佐代御前)が祭られていて、それらをまとめて庚申様だったり道祖神だったりしている。
佐代姫が祭られているのは松浦さよ姫伝承があるから、なのだろうか。

江戸時代の初期1630年、平戸藩主の松浦隆信は母である松東院メンシアを江戸の広徳寺に移住させた。
江戸幕府の命令だった。
平戸のキリシタンを支えていた彼女を幽閉するためであった。
その16年前、高山右近ドン・ジュスト夫妻と内藤ジョアン夫妻がマニラへ追放された。
船を見送ってたくさんの人たちが涙を流したのだろうと思う。ドンナ・メンシアも松浦小夜姫の様に船を見送ったのかもしれない。
あるいは、船で日本を去ったフランシスコ・ザビエルを偲ぶ姿を、乙女に重ねただろうか。
松東院ドンナ・メンシアは棄教せずに江戸下谷の広徳寺で26年を過ごし、85歳で亡くなった。
江戸のたくさんのキリシタンが、彼女によって勇気づけられただろうと思う。
キリシタンであった松東院様に祈る事は禁じられているけれど、松浦さよ姫を祀る事はOKだっただろう。

参照:鎌倉、まぼろしの風景 199 扁額にある文字

地軸の神が宇宙のどこを示しているか、天体観測をしていたのは陰陽師達だ。
安倍晴明の宿敵、蘆屋道満が晴明に敗れて追放されたのは播磨国の佐用(さよ)郡、今の兵庫県佐用郡佐用(さよう)町である。ここに兵庫県立西はりま天文台公園があって、今でも星を観測しているそうだ。この星の町の佐用という名と、島原半島の佐代姫様信仰とは無関係なのだろうか。

島原半島の佐代姫は父子相姦の伝承があるそうだ。それは旧約聖書の老父ノアと娘達の物語に似ていないだろうか。佐代姫の神像は娘の旅姿で彫られているそうだ。それは旅の途中でキリストを産んだ「丸や(まるや)」という娘のキリシタンの物語に似ていないだろうか。古くからあった伝承を利用してキリシタンが集える場所を、佐代姫が作っていたのではないか、と、疑って見る。

松浦さよ姫は、水辺で恋人を思った。
島原の佐代姫様は乙女の旅姿、(機織を止めて)放浪する娘さんだ。
海洋民と共に西からやってきた七夕伝承を利用して、キリシタンを上手に隠した人が、いたのではないかと、思った。マリア像や松東院供養塔をサヤン御前様と言って広めた、民間信仰を続ける事ができる様に佐代姫を各地に広めていった、そういう文化人が居たのではないかと、想像してみた。





+++++++++++++++++++++
 鎌倉、まぼろしの風景
http://homepage.mac.com/kamekokishi/kamakura.html


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2011
12.20

福島市と大船は似ている。

北東から南西へ川が流れている時、川の北側に都市あるいは館があって、川を越えてその真南にピラミッド型の山がある。その山には菅原道真が産まれる前からあった天神が祀られている。
というのが私の仮説だ。それは中国の泰山と黄河と、夏の天の川銀河で作る都市計画デザインだ、と、思う。鎌倉では玉縄の谷戸が池と、天神山だ。
HP「鎌倉、まぼろしの風景」の「82.柏尾川(天平の大船幻想)」
http://homepage.mac.com/kamekokishi/kashiogawa.html

北東から南西へという川は都市に普通に見つけられる。鎌倉市大船の柏尾川だけではない。
例えば福島市の阿武隈川だ。
福島市の弁天山公園を、南の泰山として阿武隈川の北に800年代の館があると、考える。
阿武隈川を中心に同じ距離を南側に置いてみた。
それは福島市の市役所あたりだ。

HP「夷蝦・陸奥・歌枕」という膨大なデータを蓄積している研究者の方と知り合って、
この事を聞いてみた。不躾な私の質問に、先生は親切にも答えてくださった。
そのメールを今日読んで、感動している。

> 「福島県中通り最古の腰浜廃寺跡の件。福島市教育委員会による「福島市の歴史」によると、創建は飛鳥時代後半の建物で8世紀後半から9世紀末まで栄えた。」

やっぱりあった。それも700-800年代だ。
グーグルアースで、福島市役所上空6mに立って、ビルの無い地形を眺めてみた。
西側に平らな山が連なっていた。まるで「多摩の横山」みたいだ。
それは鎌倉市の台山と同じ風景だ。台山はちょっとミニチュアだけど。

真西に台山が低く平らに見えるのはどこか。
地形図「大船」で調べると、それはセイシク橋の旧大船支所のあった所だ。
真南は台峰のピーク93m。真北は亀の子山の山頂30m。
とても意図的なデザインだ。
とすると、セイシク橋の南にあったのは、平安時代の館跡だと思っていたけれど、
天平時代からの屋敷跡かもしれないと思った。
染屋時忠が、鎌倉市と横浜市栄区に住んでいた頃だ。

山頂を平らに加工するのは縄文人の仕事だと思う。
千年の時間をかけて加工する事ができた時代だ。
星が西の空に沈んで行くのを、平らな山頂を水平線の様に使って見ている。
その意味は、まだわからないけれど。

セイシク橋を流れる小袋谷川は、南東から北西へと流れている。
柏尾川とは違う。中国の泰山から見る冬の天の川に一致する。
夏の七夕の天の川ではない。
冬に天神地祇を祀るのは、王になる人の戴冠式なのだそうだ。
大船から台にかけての盆地には、王様が居たのかもしれないと、思った。




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