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2012
09.17

松尾芭蕉の奥の細道と聖書

Category: キリシタン
検索をかけて知りたい歴史上の人物について読んで行くと、一日はあっという間に過ぎる。
今日は一色直朝(いっしきなおとも)さんの周囲を読んだ。埼玉県幸手市の教育委員会から出版された「幸手一色氏」という豪華な資料が届いたからだ。画家であり和歌を詠む戦国武将である。
数年来の魅力的な謎、水戸御殿英勝寺領について、また一つ物語が生まれてくる。鎌倉は語られていない歴史に満ち満ちている。
そんな風に英勝寺に夢中になっていると、ふと、まったく別のことに気付く。それも重大な事に。

今回のきっかけは、サラという姫君の事からだった。
歴史上の人物を調べると、その父は誰か、母は誰かと気になってリンクをたどって行くことになる。
そうすると、遠いとこまで行ってしまって、あれ、誰を調べていたっけ?と。
それで、わかった事をメモして行くのだけれど、メモから漏れるものもある。
そういう記録されなかった人名に「小良」サラという姫君がいた。それは誰の子供だったのか。思い出せない。

サラと言えば、南フランスではマグダラのマリアの娘だと語られているそうだ。キリストの娘だという。
それは数年前に流行ったダビンチ・コードという本と、その元ネタの本に書いてあった。
南仏の「黒いマリア」の元になっている伝承だそうだ。
私にとってサラとは、映画「ターミネーター2」のサラ・コナーズだ。
地球を救おうとしている青年(救世主)の母の名前である。
そこで気付く。松尾芭蕉を隠れ蓑にして、東北を調査した幕府の隠密。
奥の細道を一緒に歩いた芭蕉の弟子の名前、曽良(そら)とサラは音が似ている。
江戸時代にソラと言う名前はものすごくモダンじゃないかい?と、記憶に残る名前だ。
それがサラ由来だったとしたら。ヨーロッパの名前から来たのだとしたら?
マチアスという名前がマチヤスになって、甲州の大親分「武井のども安」みたいに、〇〇安と言う名前になる。
そんなふうに曽良という名前ができていたら?それはもちろん、「サラ」を知っていますよというアピールだ。

「奥の細道」という名前は地名として「日本行脚文集」に載っている。私の好きな大淀三千風が書いた本だ。
出版は芭蕉が奥の細道の旅に出た翌年だから、「奥の細道」という名前はすでにあったのだ、と思う。
参照:大淀三千風の日本行脚文集の日程表
すでにあった地名を芭蕉は題名に選んだ。
それはその名前が新約聖書に由来して命名されたのだと、気付いたからだ、と思う。

マタイ福音書 7-13-14
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこから入って行く者が多い。
いのちにいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない。

「奥の細道」とは「いのちにいたる門」へ向う細い道なのだ。
そしてそれを見つけたと、あるいは見つけに行ったのだと、芭蕉はアピールしたのだと思う。
これって、重要な事だと思う。
 
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2012
08.07

埼玉県幸手市のマリア地蔵

Category: キリシタン
戦国時代の文人武将であった一色直朝について調べていた。
埼玉県の幸手城主だそうだ。渡良瀬遊水地に近く、利根川のそばだ。

そこで「小嶋琢也の晴耕雨読」というホームページを読んだ。
興味深い記事だった。幸手市にはマリア地蔵があるという。

伊奈半十郎忠次が利根川治水事業の人夫に、豊臣方の武士を使った。
キリシタンの武士たちの信仰を大目に見たので埼玉の利根川流域に
キリシタンの文化が残ったという記事だ。
マリア地蔵は子供をだいて十字の錫杖を持っていた。
ヘビや魚が彫られていて、イメスと刻んであるそうだ。
文政3年1820年。
そんな時代まで大阪城のキリシタン文化が続いていたのだ。

取手市にも十字架を持った庚申供養塔があるそうだ。
もちろん神奈川県にもある。
鎌倉にも十字を刻んだ庚申塔がある。
それは不思議ではないのだ、と、思った。


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2012
08.06

豊後竹田の洞窟稲荷

Category: キリシタン
大分県竹田市の8月広報が出た。
http://www.city.taketa.oita.jp/temp/files/2012.08koho89.pdf
あの豪雨災害から立ち上がる写真と記事で埋め尽くされていた。
まさかこんな事態になるとはと、誰もが思ったと思う。
岡藩400年祭のサンチャゴの鐘のCDも、発表の機会を失ってしまった。
大阪夏の陣秘話「ザビエル コード」とセット販売していて、売り上げは寄付されるという。

6月号、7月号と、竹田市の広報は市内にあるキリシタン遺跡について、連載が組まれていた。
7月の記事がとても興味深かった。
ミステリアス!竹田キリシタン2
城下町を取り巻く「稲荷」と「洞窟」の謎

という連載だ。
市内に或る稲荷社の多くが岩に彫られた洞に祀られているという。
屋根の形に彫られた上部には柱を固定した跡と見られる穴がいくつか見える。
その下に鎌倉市で見られる様な矢倉があって、そこに稲荷が祀られている。
そして稲荷と言われたのは最近の事で、その前から何かの神様がそこで祀られていたという。
市の地図に点々と洞窟稲荷の位置が書き込まれていた。
すごい調査だと思った。

鎌倉には数百では済まない数のやぐらがある。
多くは個人宅の庭にあって、道路からは見えない。
それらは防空壕だと言われている。
野菜の保管庫としての室(むろ)に使われていたり、物置になっていたり。
かつての墓の跡は生活の為に利用されている。拡張もされただろうと思う。
戦争中は本当に防空壕に改造されて、深く掘られていったものもあるだろう。
それらは安全の為にコンクリートで埋められたり、敷地を増やすために崖が後退して
穴そのものが消えてしまったりしている。
それらの穴にかつてどんな神様が祭られていたのか。それを問う人は少ない。
残念な事だと思う。

竹田にある市道トンネルの写真もあった。
やはり屋根型に上部が掘られてあって、トンネルの中央には左手に祭壇らしき跡があるという。
隠れて使っていた祭祀場が大正期になって隠れなくとも良くなって、トンネルに改造された、
そんな風に見えるトンネルだ。皆が使うトンネルにして、公開して保存する、そういう意図だと思う。

鎌倉にも洞窟の改造だと思われるトンネルがある。私が勝手に思っているだけだけれど。
たとえば江の電の極楽寺駅の前のトンネルだ。
極楽寺の導き地蔵の方から見ると、極楽洞という名が掲げられている。洞窟の名だ。
長谷の方からは千歳開道という名前を持っている。つまり洞窟が開かれて道になったのだ。
でも、洞窟であった時のことを記憶するために、今も極楽洞と言う名が掲げられている。
洞窟であった事が、大切なのだ。そういう人々の思いは、鎌倉では消えて行く。
寂しい事だと思う。極楽寺にも鎌倉キリシタンの痕跡があると、私は思っている。
数十人が集まる事のできる、大きなドーム型洞窟が個人住宅の敷地に今もある。
伝承も残っているだろうと、私は思う。貴重な民の歴史である洞窟である。
もうひとつ。今は無い山崎の伏龍洞。魯山人の料亭へ行く切通しだった。
S字に曲がった道は二つの洞窟を繋げたものであっただろうと思う。
巨大な洞窟が山崎の側にあったのだと思うのだ。
台の側には、今もやぐら跡が残されている。
サッカー場になった台有荘跡地に立てば、やぐらの跡が今もいくつか見える。

鎌倉の洞窟は今後も消されて行くのだろうか。
価値のないものとして無視され続けるのだろうか。
竹田の洞窟稲荷の調査を見て、うらやましいと思った。
鎌倉におびただしく存在する(であろう)キリシタン遺跡が、
普通に語られる様になる日を願わずにはいられない。





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2012
06.08

豊後竹田、岡藩と北鎌倉

Category: キリシタン
大分県竹田市は、今年岡藩400年祭を祝っている。
武者行列があって、三日月岩の能があって、サンチャゴの鐘の音が公開されるという。
その市民祭の行事の一つに、「ザビエル・コード 切支丹 上笠五兵衛」甲山堅 著 の記念出版があった。
竹田に住んでいる著者が、父親から伝え聞いた大阪城落城秘話をまとめたもので、ノンフィクションだという。
豊臣家の滅亡。豊臣秀頼と淀殿が大阪城と運命を共にした事件は、千姫と秀頼の娘の脱出とともに語られる。
その娘はわずか6歳で東慶寺に入り、天宗尼となって生き延びることができた。
北鎌倉の歴史に繋がっているのだ。

体験から綴られた歴史の解読は、驚愕の新事実というセンセーショナルな記事を越えて、父親の意思を継ごうとする家族の物語でもあった。
歴史を探る者はいつも、自分の人生に立ちかえって、歴史の中にいる自分を再発見してしまうものだ。

書き綴ってきた「 鎌倉、まぼろしの風景」というホームページは、この六月で消えてしまう。
それでここ、fc2のホームページに、何とか移行中だけれど。鎌倉に潜む謎はまだまだ沢山あり過ぎて、調べ中、保留中の話題が山積している。
その一つが、鎌倉市台にあった東渓院という廃寺の事だ。大分県竹田市にあった岡藩の三代目藩主、中川久清が作った寺である。
すでに何回か話題にしているのだけれど、語り尽くせない秘密が残っているようなのだ。
明治に廃寺となった東渓院は、その山門だけが光照寺に残っている。
クルス門と呼ばれるその門にはIHSを図案化した中川クルスが掛かっている。
だけど鎌倉で、竹田の中川家について語られることは少ない。不思議なことだと思う。

先日、竹田市役所の方からメールが来て、400年祭のことを知ったばかりだ。
岡藩と竹田のキリシタンの研究を、市をあげてやっているという。
秘匿されたキリシタンの歴史が、もっともっと出てくるらしい。
風通しのいい、タブーの無い社会は居心地がいいだろうと思う。羨ましいと思った。

北鎌倉の東渓院のことを、聞いてみたいと思った。大阪城と北鎌倉の歴史を、知りたいと思う。
今聞かなければ、無かったことになってしまうのではないか、と思う。
歴史は教科書から学ぶばかりではない。継承して行くものだと思った。






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2012
05.01

木曾路名所図絵

Category: キリシタン
 埼玉県のHPの中に、埼玉県立図書館のページがリンクしていて、そこにデジタルアーカイブがあった。
神奈川県藤沢市と幡随意上人について書かれた江戸時代の文章を読むために辿り着いたのだけれど、いつもの様に別の物に興味が移ってしまった。木曾路の名所を絵で表した中山道の案内だった。あの中山道だ。謡坂がありキリシタン遺物が出た街道だ。そこを江戸時代の文人はどう説明したのだろうと、興味津々だった。
180.大淀三千風のすみれと芭蕉

まず、稲葉山と伊奈波神社があった。稲葉城は織田信長の岐阜城だ。それは壊されて加納城になり、稲葉山は立ち入り禁止地区になった。
194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

その山が描いてあった。そして説明書きがものすごく秀逸だった。
 立ち別れ いなばの山の峰に生ふる 松とし聞かば 今帰りこん 「百人一首 在原行平」
という歌のいなばの山は因幡国のことでここではない。と書いてある。
その上で行平の歌を下敷きにした藤原定家の歌を載せたのだ。

 忘れなむ まつとな告げそ中々に いなばの山の峰の秋風 「新古今」
忘れよう。なまじ待っているなどと言わないでくれ。因幡の山の峰の秋風。


織田信長の城下ではキリシタンが自由に暮らしていた。
秀吉と家康の時代になって、キリシタンは弾圧される。
その頃に、キリシタンには「バスチャン様の予言」という伝承が生まれた。
七代の後にパッパ(ローマ法王)の船がやってきて、キリシタンが弾圧されない時代が来る、という伝承だ。
その伝承を心の支えにして七代後の世界を待ち望んだだろう。自分の死後に実現する希望だ。
それを江戸の文人は知らなかっただろうか。
十分に彼らは知っていたのだと思う。語ることができなかっただけだ。

 忘れなむ まつとな告げそ中々に いなばの山の峰の秋風

稲葉山をのぞんで、この歌を詠む。詠んだ責任者は定家だから、キリシタンとは関係がない。
いなば山というだけの連想だ。
でもこの本を開く「中山道を見てみたい人」は、この歌をここで読んで、どう思うだろう。
これこそ文学的な感動を呼ぶ場面だと思うのだ。

忘れよう。なまじ待っているなどと言わないでくれ。

そういう素晴らしく巧妙な仕掛けが、江戸の本にはある。だからヒットして後世に残る。
バレたら命が無い、そういう出版を江戸の文人はやっていたのだ。すごいと思う。

それで、御嵩町のキリシタン遺跡のあたりは、というと、お寺がいかに壮麗だったかが語られていた。
あたりまえだ。仏教徒である事を強調した場面だった。そして。いたるところにクルスが書かれていた。
いくつもいくつも。小さな十字架が文字の中に散らばっていた。直立した十字架。斜めに傾いた十字架。
漢字の中に十文字になる部分はいくらでもある。その小さな十が、みんなローマ十字に見えるのだ。
知っている人だけが、ああ、と気付くことができる。
そういう中山道の案内に、思えた。


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