FC2ブログ
--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012
01.31

203.謡曲「隅田川」と田代城主

Category: キリシタン

 能の演目の隅田川は、上演されることの多い人気の演目だ。まったく能に縁の無い私でも知っているほど有名で、歌舞伎や人形浄瑠璃にも、何度も翻訳されている。


 人買いに連れ去られた幼い息子を探して、都から東国の隅田川までやって来た母は、渡し船に乗せてもらって悲しい事実を知る。昨年ここで病死した稚児の法要が対岸の塚で行われるという。その梅若丸が我が子であるとわかった。

 息子に会いたいと、恥も外聞も捨てて街道をさまよった母は、狂女と呼ばれている。
 その思いは果されなかった。哀れに思う人々の前に奇跡が起きる。梅若丸の幽霊が現れるのだ。 母は喜んで抱きかかえようとする。しかしそれはかなわない。
 会えて嬉しい、しかし息子は死んでしまった。悲しい、嬉しい、悲しい、、。
 母の想いは乱れる、、。そういう物語だと、思っている。


 観世元雅(1369?-1432)が作ったこの演目の上演方法について、稚児の姿を舞台上に出す演出方法と、稚児を出演させずに、母の幻覚として演じる方法があるのだそうだ。
 稚児の姿を母と一緒に舞台に上げるのが、作者の本来の意図である。

 子を思う親の普遍的な姿を演じて、見る人の涙を誘う。人気の演目だ。それが陳腐にならず今日まで続いたのは、別の読み方があったのではないかと、思いついた。
 神奈川県寒川町の勝楽寺に行って、内藤秀行の墓を見て、龍角山福泉寺や海底(おぞこ)や、小動(こゆるぎ)村を訪ねてから、半年たって気づいた事だ。

 15世紀に作られた演目を上演することで、口に出して語ることが憚られる現在(17世紀)の事実を伝えている。人々に、ああそうだったのかと、教える。
 知っている人が、あれは田代(たしろ)の殿様のことだと、切り紙伝授の様に耳打ちすれば、別の世界が広がって見える。
 そういう見方が、謡曲隅田川にあった、としたら。

 証拠の無い妄想を私も寸劇の様に書いてみたい。主役はご贔屓の大淀三千風にしよう。


 現代の都、江戸から、僧形の連歌師がやってくる。
 「私は大淀三千風と申す売僧坊(マイスボン)。
 陸奥国磐城平の殿様、内藤義英様の御依頼で、内藤秀行の墓を探しに参りました。
 小田原北条氏の下で奥三保を支配した彼のゆかりの後をたづねています。」
 武蔵国から相模川を超えて田名から角田(すみだ)に入る。角田を流れる中津川を南に渡ると、満珠山勝楽寺の伽藍が見える。そこに探し求めた内藤秀行の墓があった。

曹洞宗満珠山勝楽寺・田代半僧坊(神奈川県愛川町)


 墓前で真言を上げる三千風。そこに和尚が登場して、秀行の位牌を見よと本堂へ誘う。


 そこには秀行の亡くなった日が書いてあった。

 内藤秀行 松渓院孝山宗忠 天正11年8月10日卒(1583)
 彼の妻 寿性院茂林慶繁 天正14年2月21日死(1586)


 永禄12年(1569)10月7日の三増峠の戦いは、両軍あわせて3~4万人という最大規模の山岳戦だった。勝楽寺からわずか2kmほど北の地域である。武田信玄は47歳、知力に勝っていた。一方、北条氏邦、氏照と玉縄城の北条綱成は小田原城の北条氏康を待たずに開戦。双方あわせて4000人の死者を出す激戦になった。この三増合戦の直前に田代古城は落城したと言われている。
 田代古城で武田の軍勢と戦った内藤秀行が、戦いに敗れて散りじりになり、軍勢が山の尾根を越えて逃げて行ったのは1569年の事だった。
 戦国時代に、城とともに多くの武将は死んで行った。しかし田代古城については、みな山へ分け入って逃げたと、伝承が残っている。
 落城した1569年に、内藤秀行は死ななかったのだ。位牌に書かれた命日を見れば。
 それから悠に14年、秀行は老後を生きたのだ。妻と過ごした14年があった、それは武士を捨て農民になって、名を隠した暮しであったのだろう。
 自殺しないのはキリシタンの信条と同じだ。

 その事に三千風は気付く。和尚さんにゆかりの地を訪ねたいと告げる。
 和尚さんは黙って、角田の川の上流を眺める。それで全てが分かったのだ。

 川の上流に、小さな耕地のある館があった。
 そこまで行き、三千風は一夜の宿を求めた。その夕べに三千風は語る。
 江戸から来た事。内藤義英の依頼で、勝楽寺の墓に詣でた事。
 内藤秀行の位牌を見た事を告げる。
 館の主は涙を流して答えた。

 「それはこの館のことでございます。ここで秀行は生涯を終えました。そこに座っているわらべが秀行の末裔でございます。」

 滅亡した内藤秀行の墓を求めてはるばるとやって来た三千風は、思いもよらず、赤い頬をした少年に出会った。
 内藤秀行は百年前に亡くなっている。しかし彼の形見は、この中津川の岸辺で存続していた。それは塚から現れた稚児の幽霊の様に思われた。
 この地では未だに小田原北条氏の時代の光が、消えずに残っているのだと知った。
 それは依頼主にとって嬉しい事でもあり、また非常に危険な恐ろしい事でもあったのだ。
 それを報告しなければと、三千風は帰路についたのだった。


 謡曲隅田川には、稚児が実際に舞台に現れる演出と現れない演出とがある。
 母一人が稚児の幻影を見るという舞台に稚児が出ない方が、より優れた演出だという人もいる。
 子供を舞台に上げるのは、稚児の流行に乗った当時の人気の演出方法だという人もいる。
 『相模の国の角田に、キリシタンが共存できた時代を思い出す秘密の里があった。』
 そう告げたい人は稚児の幽霊を舞台上にあげて見せただろうと思う。
 そうでは無く、そんな時代は消え失せて、今は全く徳川様のご威光で暮らしている、キリシタンなどとんでもない、というアピールならば、子孫が登場する場面はない。

 隅田川をどう演じるか。それはそれぞれの武家の好みで違っていただろうと思う。
 どの家がどう演じさせたか、皆周知の事実だったのだろう。
 それを単なる演出方法の違いだと、公然と話す事ができた。
 「私は稚児が出てくる方がいいと思う。」
 「いや私は出ない方がいい。」
 そんな風に穏便に信条の違いを表明できたのではないか。
 能の名作隅田川にはそんな別の読み方があったのではないかと、
 田城古城を調べて思いついた。

参照:相模原歴史シリーズ 三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍
参照:神奈川やまなみ五湖navi:名所・旧跡/隠川

追記1:
 イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンは1956年に日本を訪れた。能の隅田川を基に教会の祭典用オペラ「カーリュー・リバー」を作る。母の前に息子の幽霊が現れる場面をキリストによる救いとして表現している。

追記2:
 鎌倉市の比企ガ谷の南に、田代観音堂があった。この観音はいま祇園山安養院田代寺にあって、安養院の境内には田代と書かれた碑文がたっている。

 鎌倉時代の武家の田代信綱が作った田代寺の観音像だ。でも、江戸時代の人が聞いたら、まず田代古城を思い出すのではないかなと思った。
 延宝8年(1680)に全焼した安養院はその後に田代観音堂を移築して再興。安養院には日限地蔵もあり、観音と地蔵の双対石像もある。北条政子を弔うお寺だから、美しい尼僧姿の政子像もあって、江戸時代には、マリア像のかわりになったのかもしれない、などと妄想してみた。

  ***亀子***( 5 Dec. 2011)


スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2012
01.01

田の字の中にあるクルス

今日は午後二時からTVで歌舞伎があった。隅田川と、源平布引滝 だった。
田という字は口の中に十という字が入っている。
TVの画面に出た田という文字は、活字の田とは違った文字だった。
真ん中の十という文字の横棒が短いのだ。それで口の、両脇についていない。
横棒の両脇が空いている。ハッとした。

図象として、その田という文字を眺めていた人が、江戸時代にいたのだと思った。
田という漢字をこの様に書く人と、書かない人がいた、としたら。
それは何をアピールしただろう。
江戸時代の文字は現代人には読みにくい。だから活字に起こして資料にしてくれると、
読みやすくて助かる。でも、それでは、漢字をどう書いたかは残らないのだ。
田の字の横棒が短いのか、長いのか。活字資料では抜け落ちてしまう情報だ。
こんなに、見た目のイメージが変わるのに。

書、という美術品の分野がある。美しい文字を鑑賞するのだと思っていた。
有名人の手紙だったら、本人が書いたという価値がつく。
でも、それだけではない。
この人は田という文字をこの様に書く人だった、という様な、
個人の好みも表していたのだ。と思った。
書かれた文字をみれば、文章の内容に関係なく、伝わる別の事がある。

それを掛け軸にして茶室に飾る。見る人はドキッとする。
でも、それを語る事はできない。田の横棒が短かったら、なぜドキッとするのか。
それを語る事はできない。ただ、いい書ですねと言うばかりだ。
いや、私はどうも好かない。と言って忌避する人もいるかもしれない。
キリシタンの禁教時代に、そう言う会話があったと想像する事は楽しい。

最近、老舗の看板や酒瓶に書かれた酒の名前など、江戸時代の文字を眺める。
甘なっとうと書かれた甘と言う字に、太いクルスがあったり、
米と言う字が縦長だったり。
茶と言う文字はまるっきりキリストの十字架図だ。
山の上の遠景に小さい十字架が二つ見える。中央には大きな十字架。
キリストは二人の罪人とともに十字架にかけられたから。
そのキリストの十字架の足元に、二人のマリアが膝まづいている。
そう、見える様に、書ける。活字になると消えてしまう情報だ。

江戸時代の庶民はとてもしたたかで強い、と思う。
数万人が殺されたという弾圧時代に、ハナを明かすような娯楽を創り上げた。
その事をもっと見つめて見たいと思う。











Comment:0  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。