FC2ブログ
--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012
05.30

黒川能を地図で調べる

Category: 星月夜の鎌倉
 建長寺は鎌倉五山の第一の寺、そこで黒川能が催されるそうだ。
黒川能とは山形県鶴岡市に伝わる郷土芸能で、春日神社の氏子が務めるという。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 航空写真で見る黒川は田園地帯だった。東南東に向けて直線道があって、その先に春日神社があった。

黒川能は大地踏から始まるのだそうだ。稚児がトントンと大地を踏む。陰陽道の呪法なのだそうだ。

「東に月山高くさん」「北に鳥海まんまんとして」子供が謡うとブログに書かれた大地踏の言葉にはっとする。
参照:月扇堂手帳 黒川能(大地踏/式三番/絵馬/頼政/羽衣/羅生門/金札)


 黒川の南東に月山がある。東ではない。陰陽道なら、そこはしっかり区別をするだろうと思う。
 鳥海山は北北東だ。北ではない。
 
 陰陽師たちは厳密な観測と測量をする。こんなふうにアバウトな言い方をする時には、そこに厳しく観測された何かを隠している、と見る方が良い。そもそも陰陽師は天皇にだけ奏上する、こっそりとお話をするのであって、星の秘密を公にしたりはしない。だから。
 これは星が出ているなあと、思う。
 月山と鳥海山の真上に、星が昇っているはずだと気付く。

 iPadに「星座表」という優秀なアプリがある。iPadを北の空にかざすと、今その場所で見ることができる星座と惑星、月などが表示されるのだ。
 地図とiPad、あるいはiPhonがあれば、黒川の星空も再現できる。信頼性については、わからない。

 黒川能は500年続いているのだと言う。だから年代は1512年に設定する。祭りの2月1日に。
場所は山形県鶴岡市の北緯と東経を入れた。すると。

 2月1日の日没、太陽がまだ地平線の上にある17時半頃。北北東の鳥海山の上に、北斗七星が立っていた。矢印の様に立つ北斗七星を実際に見る事は出来ない。それからしばらく天文薄明が終わって、20時頃になると星はくっきりと見えてくる。その頃には高く昇った北斗は北東にあって輝いている。星を読む人達は逆算して、日没に鳥海山の上に立つ北斗を想像することができる。
 夜を徹して祭りが行われて、翌朝、日の出前の6時から南斗六星が昇る。南斗六星の全体が月山の頂上にかかる時は7時。日の出の直前だから、これも実際には見えない。

 鳥海山の真上に北斗が昇り、月山の真上に南斗六星が昇る。
それは日没と日の出の瞬間で、どちらも人々の目には見えないのだ。
やはり陰陽師たちの天体観測はすごいなあと思う。
太陽と、その光で見えなくなった星座を、祭りの空に飾るのだ。

 鳥海山から黒川、その先まで地図上に線を引くと、その線上であれば同じ景観を楽しむことができる。
北斗が鳥海山に立つ場所だ。
 月山から黒川に向けて線を引くと、その線上の場所であれば、月山の上に南斗六星が昇るのを楽しむことができる。
でも、その両方の景観は黒川の春日神社境内でなければ、得る事は出来ない。二つの線が重なる場所だ。

 だから。ここに黒川能が残ったのは偶然ではないのだ。
この地で祀られる事に、意味があったのだと思う。

 追記:子供が高く足を上げて、地面を踏む。空に北斗七星がかかっている。翁が笑っている。
そんな絵を見たことがある。マタラ神の掛け軸だ。鎌倉時代から徳川家康の頃まで、摩多羅神は生きていたのだと思う。能や猿楽、神楽の神様だ。



スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2012
05.01

木曾路名所図絵

Category: キリシタン
 埼玉県のHPの中に、埼玉県立図書館のページがリンクしていて、そこにデジタルアーカイブがあった。
神奈川県藤沢市と幡随意上人について書かれた江戸時代の文章を読むために辿り着いたのだけれど、いつもの様に別の物に興味が移ってしまった。木曾路の名所を絵で表した中山道の案内だった。あの中山道だ。謡坂がありキリシタン遺物が出た街道だ。そこを江戸時代の文人はどう説明したのだろうと、興味津々だった。
180.大淀三千風のすみれと芭蕉

まず、稲葉山と伊奈波神社があった。稲葉城は織田信長の岐阜城だ。それは壊されて加納城になり、稲葉山は立ち入り禁止地区になった。
194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

その山が描いてあった。そして説明書きがものすごく秀逸だった。
 立ち別れ いなばの山の峰に生ふる 松とし聞かば 今帰りこん 「百人一首 在原行平」
という歌のいなばの山は因幡国のことでここではない。と書いてある。
その上で行平の歌を下敷きにした藤原定家の歌を載せたのだ。

 忘れなむ まつとな告げそ中々に いなばの山の峰の秋風 「新古今」
忘れよう。なまじ待っているなどと言わないでくれ。因幡の山の峰の秋風。


織田信長の城下ではキリシタンが自由に暮らしていた。
秀吉と家康の時代になって、キリシタンは弾圧される。
その頃に、キリシタンには「バスチャン様の予言」という伝承が生まれた。
七代の後にパッパ(ローマ法王)の船がやってきて、キリシタンが弾圧されない時代が来る、という伝承だ。
その伝承を心の支えにして七代後の世界を待ち望んだだろう。自分の死後に実現する希望だ。
それを江戸の文人は知らなかっただろうか。
十分に彼らは知っていたのだと思う。語ることができなかっただけだ。

 忘れなむ まつとな告げそ中々に いなばの山の峰の秋風

稲葉山をのぞんで、この歌を詠む。詠んだ責任者は定家だから、キリシタンとは関係がない。
いなば山というだけの連想だ。
でもこの本を開く「中山道を見てみたい人」は、この歌をここで読んで、どう思うだろう。
これこそ文学的な感動を呼ぶ場面だと思うのだ。

忘れよう。なまじ待っているなどと言わないでくれ。

そういう素晴らしく巧妙な仕掛けが、江戸の本にはある。だからヒットして後世に残る。
バレたら命が無い、そういう出版を江戸の文人はやっていたのだ。すごいと思う。

それで、御嵩町のキリシタン遺跡のあたりは、というと、お寺がいかに壮麗だったかが語られていた。
あたりまえだ。仏教徒である事を強調した場面だった。そして。いたるところにクルスが書かれていた。
いくつもいくつも。小さな十字架が文字の中に散らばっていた。直立した十字架。斜めに傾いた十字架。
漢字の中に十文字になる部分はいくらでもある。その小さな十が、みんなローマ十字に見えるのだ。
知っている人だけが、ああ、と気付くことができる。
そういう中山道の案内に、思えた。


Comment:3  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。