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2013
02.23

織姫伝説以前のベガとアルタイル

Category: 星月夜の鎌倉
以前に書いた文を読み返して、忘れていたことを思い出した。
PSPプレイステーションポータブルの天文ソフトには、縄文時代を再現するというイベントがあったのだった。
PSPはこのソフトとGPS付きの地図ソフトを走らせるためだけに買った。
星からキリシタンへ関心が移って、十分使いこなせないうちにiPadのアプリに移行してしまった。だから縄文の空をPSPで見ていたことを忘れてしまったのだ。
忘れるのは老人の特権で、思い出すという喜びが付いてくる。笑。

それで、重要なことは。
ベガが南中した時に、アルタイルの三ツ星が縦に直立して南中するという事だ。
目立つ指標になっていたのだ。

紀元前500年代の石氏の星表を引き継ぐ中国の星図では、織姫と彦星が天の川の西側に並んで一緒にいるように書かれている。とてもハッピーエンドな星図になっているのだ。
つまりベガとアルタイルは織姫彦星の伝説を担っていなかった。
直接、落ちるワシと昇るワシの象徴だったのではと思う。
アルタイルは進軍を知らせる太鼓になっている。
古い王ベガを追い落とす英雄の象徴である。
後に、追われる王と侵略する英雄の物語は、機織り娘と牛牽きの恋物語に変えられて、穏健に象徴的に伝えられた。
中国の皇帝を憚って、伝承を守ったのだ。
だから古い星図には、織姫彦星は川の手前に並んでいて、メソポタミアから来た古い伝承の、昇るワシと落ちるワシは、川の両端に配置されている。
物語を穏便にした織姫彦星の星座の方が、あとから付け加えられた星座なのだ、と思う。星の光も小さい星座になっている。

紀元前3000年に、アルタイルが縦一列で南中する時、
ベガが天頂に昇っている。
アルタイルとベガがペアで語られるのは、この頃からなのかもしれない。
すでにベガは、紀元前1万2千年の北極星ではなく、天頂に上がる星になっている。
「あの星がかつては中心に座っていた」という伝承は、もう始まっていた。
500年ごろまでは、南十字星が直立して南中する時、ベガが天頂にあった。
850年ごろまではアルタイルが153度にある時だ。
江戸時代から現在はアルタイルが143度にある時。
その向きにその時代の道が作られているのだから、住民はアルタイルを指標にベガの南中を祀っていたのだ、と思う。

わし座のアルタイルを指標にベガの南中を知る。
それは織姫彦星の伝承があるから、だと思っていたけれど。そうではなくて。
紀元前3000年に、アルタイルが直立した三ツ星になって南中するという、印象的な景観があったから。その思い出が「ベガ+アルタイル」というペアを生み出したのだと、気づいた。

後は、年代の数字の精度を上げたいと思う。





http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html  鎌倉、まぼろしの風景




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2013
02.19

井戸尻遺跡と鎌倉市扇ヶ谷の地形に見る星神の姿

Category: 星月夜の鎌倉

長野の縄文遺跡である井戸尻遺跡と、同じ景観を、鎌倉市扇ヶ谷で見ることができる。
真東に小高い丘があって、その丘の両端に、同じ高さ15度に二つの巨星が止まる。
向かって左手は、白く光るベガ。右手は赤く光るアンタレス。
真北に北斗七星の南中。
真南に南十字星の南中。
不条理な事の多い生活の中で、空の星はこんなに数学的な配置にそろう。
左右対称だ。その一瞬、
天の川は円形に山の向こうを取り巻いている。
後に「出雲八重垣」という伝説を生む姿になる。
300年代の星空だ。



鎌倉市の地図からJR横須賀線を消して、建物が全部ないと想像してみると、扇ヶ谷には環状列石があっていい。海まで見通せる南が広く空いている土地だ。
扇ヶ谷と言えば北条政子の寿福寺。源頼朝の父、源義朝の屋敷があった所。

古くは亀ケ谷と言われ、源氏の父祖伝来の土地。当初、頼朝はここに幕府を開くつもりだった。


藤原定家の孫の為相の屋敷もあった。

扇ヶ谷上管領屋敷跡の石碑も立っている。


太田道灌の屋敷があった所。後に水戸徳川の英勝寺ができる。


歴代の覇者はここに居を構えている。それは鎌倉で最も古くから利用された重要な場所だったからだ。


以前から住んでいた長の場所を譲り受けて、あるいは略奪して住むことで、新しい時代を目に見える形にする。その最も古い住人は「神」で、祭祀の広場ではなかったかと、妄想する。


その神は星神、縄文の北極星、ベガであると思う。


亀ケ谷と言えば亀ケ谷切通としてしか名前が残っていないから、北鎌倉の方から見た亀ケ谷を想像してしまう。でも、切り通しができる前は、谷戸は寿福寺の方に開いていた。


亀ケ谷の谷は、高さ15度に昇ったベガを見るための谷戸だったのだ。


亀ケ谷とは神ガ谷であったかもしれないと思う。


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2013
02.16

織姫星、こと座のベガの祭り

Category: 星月夜の鎌倉
昨年7月に出したリーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」は、「鎌倉とはベガを祀る町である」という結論になっている。その続きがこの半年で出揃った。
こと座のベガ織姫星とわし座のアルタイル彦星。それにさそり座のアンタレスとおとめ座のスピカのキャラクターが決まった。
北鎌倉の八雲神社の御旅所である天王屋敷が、なぜ乙女座のスピカの位置にあるのか、不思議だった。それが納得できるような星空が、あった。
壮大な星空に展開する物語はスサノオの悲劇に重なっている。
それは、縄文時代から住んでいた故郷を立ち去る決意をするほどに、悲しい物語だ。
だから、次のリーフレットを出したい。背表紙のある本にしたい。
そんな欲が出てくる。
日本にはなぜ沢山の名前の神社があるのか。そのご祭神とは、同じ一つの神、ベガではなかったのか。鎌倉から逗子市、葉山町へ。兵庫県西宮へ、諏訪盆地と甲府盆地へ。
どの空も同じ星神を追っている。ベガ、スサノオ、それは本当はまつろわぬ悪神カガセオではなかったか。
それを決定するには縄文時代の星空を再現して見なければならない。
それは私のiPadのアプリでは出来ない。
もう一度山梨県立科学館のプラネタリウムに行って、お願いしてみようか。
そんな逡巡をして、一日を過ごした。
ロシアに隕石が落ちて、衝撃波が町を襲った日。
小惑星が地球に最接近するまで、あと1時間を切る。

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2013
02.14

縄文の井戸尻遺跡と南郷上ノ山公園

Category: 未分類

どうして井戸尻遺跡へと関心が向かったのか、忘れてしまった。
甲府から諏訪大社のまでの地形を見て、その間に見つけたものか。
周りを山に囲まれている地形を求めて、諏訪盆地と出雲大社の周辺と、甲府盆地を比べていたからだろうか。それは出雲八重垣の地形だ。
井戸尻遺跡からは縄文の土器がたくさん出ている、ということを知った。
環状集落という住居の設計が、これもたくさん発掘されている。
紀元前3000年あたりに、文化の中心地であったそうだ。
それが紀元前1000年には、人口が少なくなり、紀元前300年頃にはわずかな住居だけになって、300年代に誰も住まなくなったのだそうだ。
10世紀に人が住み始めるまで、この地は人がいなかったのだ。
iPadで愛用している天体のアプリ「天文学3D」は、紀元前3000年が設定できない。
だから、井戸尻遺跡の一番栄えた時の空を再現できないのだ。
でも、縄文時代からずっとここで暮らしてきた人達の末裔が、移住を決め、立ち去った頃の空は再現できた。
AD1年の空だ。その星空を見て、なぜ彼らが住まなくなったのか、想像することができた。
その空が、先日から眺めていた神奈川県葉山町の南郷上ノ山公園に描く星図と同じだった。
バラバラな糸がまた一筋に集まろうとしている。
縄文の空を覚えている人々が、この空を見たらどう思うだろう。そんな事を家族と話し合った。


空を見上げて暮らしていた人々の心に、近づこうと思った。


星月夜の鎌倉とは、なんであったのか。また少し近づいた気がした。


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2013
02.13

佐野川の童謡と柳田邦男

新編相模国風土記稿の津久井郡を読み直す。相変わらず何度読んでも興味深い。佐野川の記述だ。
大正時代に柳田邦男が興味を持って、調査にやってきた。
それを相模湖の入り口にある正覚寺の和尚さんが、引き止める。
古老の誰もがそんな伝承はないと言う記述を、調べるのはお止めなさい、と。
私にも同じ経験がある。
二宮町の明星神社へ行こうとした時、タクシーさんが言った言葉が、そんな神社はないですよ、だった。
平塚市で護良親王の墓を探した時は、この辺りには見るものはないですよ、向こうの方へ行った方がいいですよ、だった。
鎌倉市の六国見山では、あんたの犬も毒饅頭を食わせられないように注意しなよ、だった。
住んでいる方々の協力が得られないなら、見に行かない方がいい。あるいは、こういう反応も貴重な体験として使うことだ。
私の二宮と平塚の経験は、歴史的な真実に基づく体験だった。
昭和の思想弾圧がいかに厳しいものであったかという、体験である。それが平成の今にまで、伝わっている。非国民と言われないように、住民の警戒心は解けていない。
神奈川県相模原市緑区佐野川のサノとは狭野であるという。相模のサは、狭野のサであるという。
武州と甲州と相州が接する三国峠から相模の国は広がっている。
そんな佐野川に石楯尾神社があることを知った。式内社である。
県内に7社、あるらしい。その数に入っていない本宮が三国峠の山頂にあって、佐野川の石楯尾神社は前宮だと言う。
その本宮へ、夜、三河の殿様が登って行った。
お恐れ多くも三河の殿様が、と、佐野川の伝承と言われるわらべ歌は唄う。

   お馬にも乗らず、お駕籠にも召さず

   夜中の頃にお山へ登った殿様は、

   ありゃあどこの殿様だ。

   お恐れ恐れ、泣く子も黙れ、

   三河国の殿様だ。

それは徳川家康か。池田輝政か。田中バルトロメオ吉政か。興味深いと思う。

津久井郡佐野川を調べて新編相模国風土記稿に纏めたのは千人同心の人達だ。八王子千人同心は、武田の遺臣達であるそうだ。その末裔が残したかった事が、甲州に接したここに残っているのではないか、と、思った。


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2013
02.09

上ノ山公園の星祭り の続き

Category: 星月夜の鎌倉
途中で文章が切れてしまったので、続きを載せます。
/////////////

アルタイルを見ようとして、山頂に加工がされたのだろうか。


そのすぐ南に前方後円墳の様な形の山頂が、アンタレスの向きを指し示している。


どこまでもここの山は人工的なデザインがされているらしい。





グーグルアースで、山に取り囲まれた公園を眺めて見た。


まるで実写のようだけど、これは航空写真を元に山を立ち上げて作ったCGだ。


だから管理事務所のような建物は屋根だけしか写っていない。建物は平面のままなのだ。


その管理事務所のラインが、そのままアルタイルの登る向きを示していた。


これは不思議でも何でもないのだ。


葉山町には、現在もなお陰陽師と同じ仕事をする不動産屋さんや土木建設業者さんがいるらしい、ということなのだ。そしてそれは、逗子市も鎌倉市も、同じだ。


平成にできたものが星祭りを示唆する、そんな例がある。


まさに鎌倉は、星月夜の鎌倉、なのだと、しみじみ思う。









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2013
02.09

葉山町南郷上山公園の星祭り

Category: 星月夜の鎌倉
300年代に、南十字星が南中した時、そのときの星空を、特別な瞬間として扱おうと思う。



同じく1600年代のこと座のベガが南中した時の星空も、特別に扱う。


二つの時代の星々の見える向きを、透明板に書いて、地図に当てて見ると、古道が雄弁に語りかけてくる。星を見る為に作られた直線道は、そこにいた人たちの息遣いさえ見せてくれる様だ。

300年代と1600年代の透明板をルーラーにする。

どちらも星祭りのショウタイムだ。

そして今回は葉山町を、地図上で探検する。

神奈川県三浦郡葉山町にある南郷上山公園はつい最近まで、というのは1981年までということだけれど、手つかずの山塊だった。
町立南郷中学校ができ、上ノ山運動公園ができた。
公園の南側は二子山で、上ノ山と下ノ山がある。



二子山については、「鎌倉、まぼろしの風景」の、



160.双子の二子山と寒川神社

http://kamekokishi.web.fc2.com/stella/futago.html



で書いた。加工された山だと思うのだ。

218.逗子市沼間の地上の北斗
http://kamekokishi.web.fc2.com/stella/numama.html

では、上ノ山山頂から田越川が北斗七星の形になって流れるのを見る、

そのことについて書いた。

なぜ川を星座の形に作ったか。その意図がわかったきっかけの大事な場所だ。



一万分の一地形図「葉山」を開いて、南郷上山公園を見る。

南に二つの山頂があり、北に二子山、二つの山頂があった。

126mの北西の山頂をA、146mの北東の山頂をBと呼ぼう。

南西の二子山(下ノ山)は208m。これをCとする。

南東の二子山(上ノ山)207.81mの三角点の西に、212mの山頂がある。ここをDとしよう。

すると見事な長方形ができる。山頂を四つ結ぶとキッチリした長方形になるのだ。

これはとても人工的な加工の跡を思わせる。山頂の移動は、やればできる。崩していけばいい。

東西に370m、南北に500m。その中心は公園管理事務所の東側だ。



この長方形の中心点Eに、1600年代のルーラーを置いて見る。

江戸時代は星神に祈る事が許されていた時代だ。

徳川将軍家の下で、公家の文化はパロディーにされていた。

平将門も悪神の星神カガセオも、英雄であっただろうと思う。

その時代の星空の、特別な一瞬を再現する。



真南は山が迫っていて、低い南斗六星は見えなかったかもしれない。

北斗七星は北西にあって、そこだけ山が切れている。そこに北斗が立っている。

Cの二子山(下)の頂上に、さそり座のアンタレスが乗っている。

Dの二子山(上)の頂上に、わし座のアルタイルがある。彦星だ。

そしてこと座のベガが頭上に来ている。織姫星が井戸の水面に映る瞬間だ。



森戸川の上流のこの窪地に、江戸時代に、人々は集まって七夕の祭をやっただろう。

そう確信する。さらに。

それはここが、もっとずっと前から、星祭りをする場所であったからだ、と思う。



333年のルーラーを乗せて見る。南郷上山公園の300年代の星空だ。

AとCの中間点にある公園管理事務所に観察点を合わせて見た。

Aの山頂の左右の、平でなだらかな台地に北斗七星がある。

Bの山頂にこと座のベガがある。高度15度。低いけれど十分に見える高さだ。

Cの山頂に南十字星。これは山に隠れて見えない。

Dの山頂にさそり座のアンタレスが乗っている。高度12度。

上ノ山は212mで、とても近く迫っているから、見えただろうか。

当たり前のように書いているけれど、四隅にある山頂に、きちんと星が配置されていた。

驚くべきことだと思う。

そしてわし座のアルタイルは、東の二つの山頂の間から昇ってくる。

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2013
02.08

長岡京に消された古山陰道と星

Category: 未分類
「地形図に歴史を読む」という本がある。藤岡謙ニ郎 編 昭和47年 大明堂から発行されている。その第四集の6が「長岡京と古道」だ。784年から十年間、平安京と同じ規模の長岡京があった。
その図に北西から南東へ、赤い破線が引かれている。宇治川を横切るあたりは実線になっていて、古道と重なるところもある。これは古山陰道の痕跡であると書かれていた。
長岡京ができる前に、奈良に都があった頃の道が、長岡京の建設で消えってしまった。
だから長岡京の北西と南東にしか直線堂が残っていない。という結論だ。
この破線で描かれた、長岡京の中の失われた道の角度が153度。驚きだ。

ベガが南中した時のわし座のアルタイルの位置は、時代によって違う。
江戸時代や現在は143度。江戸時代に隆盛を迎えた神社の参道は143度になっていたりする。
それが万葉集の頃は、153度にアルタイルが上がっている。
この頃までにできた道は153度の直線道になる。
この本に書かれている古山陰道は、時代もちょうど合致する。

アルタイルが東から昇ってきて、直線道の先に高く上がっている。
その瞬間が、こと座のベガが南中した時だ。
道を作ることが街道を作ることではなかった時代の名残があるのだと思う。
その頃、公費で作った道は通過するためのものではなく、見晴らすための天文台の付属品だ。
より効率よく設置された省力型のストーンサークルだ。

地図を見て、時代の経過を知る。「地形図に歴史を読む」は興味深い本だ。
でもそこに、星を入れた景観をデザインすることは書かれていない。
歴史と地理に天文の知識が入っていたら、もっと面白いだろうと思う。

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2013
02.06

その八重垣をギャラクシーと言う。氷川神社の場合。

Category: 星月夜の鎌倉
兵庫県の海岸に3つの古墳が並んでいて、
それがオリオンの三ツ星の下にあるんだろうなあと考えた時に。
東西の求女塚(もとめづか)古墳と真ん中の処女塚(おとめづか)古墳の三つが、
オリオンの三ツ星に揃う。
そう見えるところは西宮神社だとわかった時に。
その後に始まる天体ショウが、とても興味深かった。
塚ができた頃は、南十字星が見えていた。
山梨県立科学館のプラネタリウムが、500年代の空として
その銀河と南十字を再現して見せてくださった。

この天体ショウを、日本中の神社で見られなかったか、試して見た。
透明の下敷きに観測地点を中央に置いて、その時のベガはこの方向、
などと星の向きを書き加えていく。
テーマは出雲八重垣。
銀河(ギャラクシー)が、八重垣であるという仮説の検証だ。

武蔵一宮と言われる埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社は、
中山神社と氷川女体神社の三つで成り立つと言われている。
等間隔で120度の直線に並ぶ3社は、冬至の日の出と夏至の日没方向を示すと言われている。
福岡県宗像市の宗像大社を連想させるが、宗像3社は140度の直線だ。

透明の下敷を氷川神社にのせる。333年の星空だ。
iPadのアプリ、天文学3D を信じて線を引いた星の向きだ。
すると、参道がスピカの向き158度。
神社からスピカを眺める。
さらに神殿の前に立って右手、東側に、門客人神社(アラハバキ社だという)と、御嶽神社がある。
この3点を結ぶと、この後昇ってくるアルタイルの向き。
南十字星の方に宗像神社。
面白すぎる。

次は中山神社。男体社と女体社の息子、あるいは孫。王子社。
長い長い参道はアルタイルの昇る向き、だった。
王子は、太陽の使者であるワシを名乗る征服者のやって来る方向を示していた。
面白すぎる。

そして氷川女体神社。
かつてここに御沼が広がっていて、御船祭が行われていた。
それが江戸時代に干拓によって沼が消え、見沼という地名だけが残る。
そこで小さい池に出島を作り祭祀場として磐船祭を行うようになった。
明治初年に消えてしまった祭りの跡地が残っている。
神社から磐船祭祭祀遺跡までの参道が127度。
神社からアンタレスを眺める向き。
面白すぎて。

300年代に、星が昇ってくる祭りがあって、
その記憶を残した道筋が今もある。と考える。
おそらく星神が復活した江戸時代に整備された道だとは思うけれど。
出雲の祭りは星祭り。スサノオの祭りはベガの祭。
透明の下敷をルーラーにして、もっと道を発見して見たいと思う。




http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html 鎌倉、まぼろしの風景
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2013
02.05

2013年2月5日

Category: 未分類

<table cellspacing="0" cellpadding="0" width="100%" style="padding-bottom:20px;padding-top:10px;">
<tr>
<td style="line-height:1;text-align:left;padding-bottom:0px;">
<h3 style="margin-top:0;margin-bottom:0;margin-right:0;margin-left:0;padding-top:0;padding-bottom:0;padding-right:0;padding-left:0;color:#262626;font-weight:bold;font-size:11px;">From Evernote:</h3>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="line-height:1.3;text-align:left;padding-top:0px;padding-bottom:7px;border-bottom-width:1px;border-bottom-style:solid;border-bottom-color:#b5b5b5;font-size:11px;">
<h1 style="margin-top:0;margin-bottom:0;margin-right:0;margin-left:0;padding-bottom:0;padding-right:0;padding-left:0;color:#262626;font-weight:bold;padding-top:5px;font-size:18px;">2013年2月5日</h1>

</td>
</tr>
</table>


星の向きを盆地に見る。あちこちの盆地にスケールを当てて見る。
面白い。
高遠の地図を見て、山頂に前方後円墳の形があるのに気づいた。
そこが五郎山。仁科五郎の墓があった。初名は武田晴清というそうだ。
武田信玄の5男だそうだ。
織田信長の武田攻めで、高遠城を守って討死。
古くから地域の人達が守ってきた古墳に彼を合葬した、と言うことだろう。
参道は円墳の山頂から1600年代のデネブの方角へ、60度。
前方後円墳の向きは、円墳に立って「前方」の方向を向くと、北斗七星の向き。
もちろんデネブも北斗も、ベガが南中した時の方位だ。
ベガが頭上に来ている時の。

武田信玄の娘、菊姫。甲斐御前。阿菊御料人。1563-1604
京都伏見邸で41歳で死ぬまで過す。
歌舞伎「本朝二十四孝」のヒロイン八重垣姫のモデル。
米沢初代藩主の上杉景勝の正室。
上杉景勝は、米沢にキリシタンは居ない、と言ってキリシタン詮索を拒否した人。
景勝は、父、長尾政景。母、長尾為景の娘。養父、上杉謙信。1556-1623

武田信玄の3女、真理姫。真竜院。1550-1647
木曽氏19代の木曽義昌の正室。
木曽義昌は、織田信長の嫡男、織田信忠に味方して仁科五郎と戦う。
義昌は徳川家康から下総阿知戸(千葉県旭市網戸)を賜り、ここで死去。

武田信玄の5女、松姫。信松尼。
織田信忠の正室。信忠は本能寺の時に自刃。松姫は22才で尼になる。
大久保長安が八王子に姫の草庵を作り援助する。
八王子千人同心の心の支え。
家康の息子、後の会津藩主、保科正之の養母。

この辺りの人脈が面白すぎる。
松尾芭蕉が木曾義仲を慕うのは、この辺に本当の理由があるのではないか。
八王子千人同心は武田遺臣の組織だ。絹や甲府の産物を江戸に運ぶ商人でもある。
彼らの中から新編武蔵国風土記稿や新編相模国風土記稿を編纂する原胤敦が出てくる。
ここから津久井の記事に話がつながった。
バラバラな疑問が、ある時、スイっと一つに紡ぎ出されて、はっきりした一筋になる。
面白すぎて寝られない。


3:53


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2013
02.04

2013年2月3日

Category: 未分類

<table cellspacing="0" cellpadding="0" width="100%" style="padding-bottom:20px;padding-top:10px;">
<tr>
<td style="line-height:1;text-align:left;padding-bottom:0px;">
<h3 style="margin-top:0;margin-bottom:0;margin-right:0;margin-left:0;padding-top:0;padding-bottom:0;padding-right:0;padding-left:0;color:#262626;font-weight:bold;font-size:11px;">From Evernote:</h3>
</td>
</tr>
<tr>
<td style="line-height:1.3;text-align:left;padding-top:0px;padding-bottom:7px;border-bottom-width:1px;border-bottom-style:solid;border-bottom-color:#b5b5b5;font-size:11px;">
<h1 style="margin-top:0;margin-bottom:0;margin-right:0;margin-left:0;padding-bottom:0;padding-right:0;padding-left:0;color:#262626;font-weight:bold;padding-top:5px;font-size:18px;">2013年2月3日</h1>

</td>
</tr>
</table>

i文庫で資料を読むのは楽しい。大分県竹田市の広報や東京都港区の発掘情報など、ネットに在る文書を自分の仮想書架に並べるのは嬉しい。江戸期の資料や学会の論文も、観光課の地図も、みんな並べて置ける。
大正時代の古書は紙が粉になっていることがあるけど、iPadなら埃は出ない。すばらしい。
今日Noeさんがスキャナーを買った。「自炊」(本を電子化する)に励んで書架を空けたいのだそうだ。私の昭和初期の本も、i文庫で読めるよと誘惑する。
すると、ある時、すべてのデジタル化資料が消える時があるかもね。
DVDもCDも磁化資料もみんな燃えて、残るのは石に彫った文字だけだね。
そういう近未来小説はよくある。
地球の文明は石器時代から進化しなかったよ、と。誤解される。
「ピラミッド 5000年の嘘」という映画が、そうだった。
かつて地球には高度な文明があって、それから石器時代になった、というお話。
ピラミッドは前文明の遺物を再利用しただけだと。面白かった。
エジプトのナイル川は南から北へと流れる。北上川と同じだ。
北が上(かみ)。上流、ではない。北の神、北神川かな。
だったら子の神(ねのかみ)、天の北極の神だ。
ナイル川は月の山から流れ出すという伝承がある。月山、である。
星曼荼羅にはプトレマイオスの星座が描かれているから、北上川はナイル川、なのかもしれない。

23:23


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2013
02.02

古書「奥秩父」を読む

Category: 未分類

昨日、友人と平塚の街を歩いた。ふと見つけた古書店で原全教著「奥秩父」を手に入れる。
今日はそれをゆっくりと読む。
私は登山をしないので、代わりに歩いてくれる登山家の記録は有難い。
昭和8年と10年に出版された正、続の2冊を昭和52年に木耳社が再販した。まだ開発されていない頃の地図がたくさん入っている。興味深かった。
そもそも奥秩父山塊とは。
宇都宮の高崎から長野の小諸。東京市!の御岳から山梨の大月、韮崎までが、最初の地図に描かれていた。
千曲川と冨士川、多摩川の水源地だという。すばらしい。
遠い昔に。鉈を持って藪を切り開きながら山を登るのは苦しいけれど、河原を遡り沢を歩くのは楽しかっただろうと想像する。馬上であれば。馬は水辺が大好きだから、川があるというのは「道がある」に、等しかったのではないかとも思う。岩場は、馬、通れないか、、。
鍾乳洞、金山。平将門、徳川忠長。一揆、自由民権。武田信玄、小田原北条氏。キーワードは沢山あって、その舞台を俯瞰できる楽しみ。
ゆっくり読みたいと思う。

午前中に、家族で由比ヶ浜に行った。地名じゃなくて本当の海岸の砂浜に。
暴風雨で、歩けないほどの風圧の中、真っ先に帰りましょうと言ったのは犬だった。冷静な判断ができるのが、シェリル。
雨が降ると由比ヶ浜に来たがるのは何故?などと言いながら、誰も止めようと言わない。そういう家族なんだ、我が家は。
荒れた海と潮風に当たって、いろんなものがリセットされる。
恐ろしく、美しい、海を見に行く事がたまにあるのです。








http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html 鎌倉、まぼろしの風景





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