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2014
06.19

善行寺村事件の詳細

Category: 未分類
「ぜんぎょうを知ろう!ふるさと再発見
善行の古道を歩いて名跡を訪ねる」
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/zengyo-c/page100018.shtml

を読んだ。善行寺村が忽然と歴史から消え、江戸の文書からその名が無くなったことがよくわかった。新編相模国風土記稿でも、全く出てこない地名だ。
藤沢市が出した「藤沢の地名」などに、徳川家光暗殺未遂事件があり、遊行寺が処罰されてその末寺の善行寺が無くなったという「うわさ」があると載っている。善行寺村があったという文書的な証拠が、善行神社に残る石碑だけであると、今まで言われていた。でもこの本で、明治まで地域の人たちは善行寺村と語っていたこと、大正の時代になって、今の様に善行という地名になったことがわかった。
地域の人には当たり前に語っていたことも、文書に書かれなければ無かったことになる。
伝承だけが、施政者の歴史の改ざんや情報統制に対抗する力なのだと思う。伝承の力。消さないで引き継ぎたい。

家光が将軍になってからのことだから、1623年以後にあった事件だ。
処罰された遊行寺は1631年寛永8年に時宗総本山であると寺社奉行から認定される。つまり遊行寺の名誉回復だ。
だから1631年の数年前に事件が終わっているはずだ。5年以上は過ぎていると推測する。そうすると事件は1623年から1626年の間の事だ。
ネットで徳川実紀が読めるから、そこから気になる事項を取り出すと面白いと思う。テキストじゃないので読みにくいけど4年分なら、頑張って読んでみる?

上記の本で、この事件のキーワードを挙げることができる。それに「キリシタン」という視点を加えて眺めて見る。3代将軍家光は江戸大殉教(1623年)を起こした人物だから。恨みを買うのはここだと思うから。

まずキーワード佐竹藩。
藩主は佐竹義宣(1570-1633)だ。1710年ごろの江戸上屋敷は下谷七軒町。中屋敷は鳥越。下屋敷は深川。どこもキリシタン所縁の場所。
水戸から出羽久保田藩(秋田)へ移封。とすると聡明な徳川光圀が後に水戸にいたのは、佐竹藩の下で暮らしたキリシタンを鎮めるためか。
佐竹義宣が召し抱えたのが人見九右衛門。伏見でイエズス会のデ・アンぜリスから洗礼を受け、ペードロ人見と名乗る。久保田藩でキリシタンの指導者になった。1613年には仙台と久保田にカトリック教会があったそうだ。
佐竹義宣の側室「お西」はキリシタンだったので義宣は棄教を迫った。彼女は拒んだので追放されたという。一方、側室は蘆名盛興の娘で岩瀬御台という。離縁させられて、岩手県横手市の春光寺に彼女の納めた観音像がある。この観音をマリア観音ともいうそうだ。

次に、キーワード衆領軒。
遊行寺の僧侶の役職で修行8年以上の者。この位から和尚と名乗ることができるそうだ。役付きだけど高位では無い。
この衆領軒が、当代の遊行上人の事件を庇って切腹になる。地元の人は「処刑」と語る。この違いが「歴史」の深さだ。
遊行寺は衆領軒を高位の僧にして報いたという。本人は死んでいるのに。衆領軒の関係者の生活を保証して、以後の名誉を保ったのだ。恨まないでね、と。
ネットで「時宗寺院松寿庵について」小泊立夫著 を読むことができる。そこに松寿庵という寺が藤沢の清浄光寺(遊行寺)の末寺になりたいと申し出たことが書いてある。この時「藤沢山役者衆領軒」が許可を出している。1700年代には、衆領軒は遊行寺の主席僧になっていた。和尚の最下位ではなく、遊行寺を代表する名になっている。それは善行寺村事件が確かにあったという状況証拠だ。

キーワード幡随意上人。
江戸下谷に幡随院というお寺がある。有名な歌舞伎のヒーロー、幡随院長兵衛が近くに住んでいたという。このお寺の幡随意上人(1542-1615)は70歳を超えてから徳川家康の命令で長崎まで旅している。キリシタンのリーダーに合って、改宗に力を尽くした。彼の伝記が「幡随意上人諸国行化傳」(1755年)だ。
https://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/data/d_conts/kicho/gazou/38-1.pdf
その最初に善行寺村の名前が出る。
「生国ハ相模国藤澤ノ郷善行寺村ノ人」
この伝記が出た頃はすでに消えた村になっている善行寺村。それを知って、江戸人は歌舞伎の幡随意長兵衛を楽しんだのだと思う。
家光に復讐をしようとして罰せられ、消えた善行寺。その名のついた村名は無い。

江戸の大殉教はキリシタンだけの問題ではなかった。
鎌倉の各地に衝撃を与えたのだと想像する。
例えば手広の年貢全納の証明書。
「鎌倉、まぼろしの風景 212.手広村の大岡様 」に書いた。
http://kamekokishi.web.fc2.com/kyrie/212/tebiromura.html
そういう影響の一つが善行寺村の事件なのだと思う。
佐竹一門の恨みではなく、江戸にいたキリシタンの関係者全員が家光の退位を願っていたのだと思う。

伝承がなかったら、事件があったことすら消えてしまう。善行寺村という名を今に伝えた人たちの強さを称えたいと思う。


http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html 鎌倉、まぼろしの風景
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